- 生年月日
- 1929年(昭和04年)03月21日
- 出身地
- 大阪府(大阪市)
- 最終学歴
- 大阪外国語大学中国語部卒業
- 入社年月日
- 1948年(昭和23年)12月06日
- 役員履歴
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- 1975年(昭和50年)05月30日 取締役
- 1985年(昭和60年)06月28日 代表取締役常務
- 1987年(昭和62年)06月30日 代表取締役専務
- 1989年(平成元年)06月30日 代表取締役社長
- 1999年(平成11年)06月29日 代表取締役社長退任
1989年(平成元年)6月、西木康雄代表取締役専務は、改革の使命を背負って浅田適也から第4代社長を引き継いだ。目前の課題は、①本社事務所および倉庫の新築、②国内取引の拡充、③輸入・三国間取引(仲介貿易)拡大などの多角化の推進、であった。本業である輸出に関しては、決済面でリスクのある取引は引き受けず、D/A(後払い契約)は役員全員の決裁条件とすることを決定した。
一方、戦後以来拠点としてきた大阪市福島区の本社事務所が業容の拡大により手狭となってきたため、国内販売に便利な堺市中百舌鳥町に土地1,410.96㎡を購入し、6階建て本社ビルと3階建て第2ビルを新築。1991年3月末竣工、4月1日より営業を開始した。1階から3階と第2ビルはテナント賃貸用とした。また、堺市北花田町に土地316.04㎡(4階建てビル)を購入、倉庫とした。新事務所と倉庫の確保は、新たに始めた国内販売業務に役立ち、当社の転換の大きな支えとなった。
プラザ合意以降の急激な円高は、当社に輸入国内販売事業への進出を促した。1989年4月、高級自転車の国内販売を本格的に取り扱うため、100%子会社の株式会社エヌビーエスを設立、イタリアの高級ブランド自転車BIANCHIの総代理店契約を結び自転車販売店向け販売を開始した。また、高級カーペットの輸入を試行、台北の永盛実業股份有限公司の協力を得て、アメリカ、アフリカ・中近東に台湾製品の輸出(三国間取引)を行った。
輸出は、依然として自転車とモーターサイクル部品が主流であったが、台湾などのNIES(新興工業経済地域)の進出で、扱い品目は徐々に少なくなった。最終欧米向け自転車の組み付け用となる台湾への部品の輸出が引き続き首位を占めた。1994年、アメリカの折り畳み自転車のパイオニア「DAHON(ダホン)」と日本総代理店の契約を締結した。
円高はなおも続いた。1995年4月には一時1ドル80円を突破、自転車部品の生産工場や輸出業者においても廃業・転業・倒産が相次いだ。有力部品メーカーの生産拠点の海外(台湾・中国)移転も加速した。自転車輸出組合は輸出の激減と加盟組合員の減少により、1995年4月、ついに解散した。このような状況下で、当社も社内体制の整理効率化を図る必要に迫られ、1994年3月、希望退職者の募集に至った。これにより社員総数は50名以下となった。1990年代後半の売上高はさらに大幅に落ち込んだ。輸出価格競争が激化するなかで、扱い手数料の低下で利益なき繁忙となった台湾向けの受注を停止したのが大きな一因であった。
この時代には財務体質の改善に大きな進歩があったものの、事業の多角化については道半ばであった。こうしたなか、1999年6月に専務取締役の大西一三が第5代社長に就任し、さらなる改革の道をまい進。2年後の2001年には、第6代社長となる筒路登志男へとバトンタッチすることとなる。