- 生年月日
- 1911年(明治44年)10月01日
- 出身地
- 大阪府(河内長野市)
- 最終学歴
- 大阪府立富田林中学校(旧制)
- 入社年月日
- 1944年(昭和19年)04月19日
- 役員履歴
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- 1947年(昭和22年)10月16日 取締役
- 1949年(昭和24年)05月12日 常務取締役
- 1963年(昭和38年)05月27日 代表取締役専務
- 1965年(昭和40年)05月29日 代表取締役社長
- 1977年(昭和52年)06月29日 代表取締役社長退任
1965年(昭和40年)5月29日、平田鋭之代表取締役専務が社長に就任した。初代社長荘司茂樹急逝後、最高責任者となった1964年、平田は、社長のリーダーシップをよりどころとする経営からの転換を図り、1964年に社内報の創刊や5カ条の社訓の制定、5カ年計画の発表など、組織で動く社内体制の構築に尽力し成果を挙げた。営業部門は、創業当初から会社発展に尽くしてきた岩田春寿専務取締役が統括した。
1965年より日本経済は戦後最長の好景気となるいざなぎ景気を迎え、輸出が急速に拡大した。当社の売上・利益とも年々上昇、1964年に20億6,000万円であった売上は1976年には84億3,000万円となった。民間貿易の伸展とともに輸出入規制が緩和される中で、東京出張所は、1965年4月より、従来の本社の中継ぎの連絡業務のほかに東京営業部として独自に輸出業務も行い、将来の支店昇格を目指した。
この時期もインドネシア・タイを主とする東南アジアやアフリカ市場は、多少の起伏はあるものの変わらず好調であった。1956年に発足した機械課は、産業機械からネジ類までを取り扱い、東南アジアから北米、欧州へと市場が拡大した。1970年代に入ると、台湾、インド、中国からの製品が安値を武器に発展途上国市場に出回った。その対応策として、すでに1965年にアメリカのSCHWINN社と総買付代理契約を結んでいたが、さらに欧米の先進国向けの取引を強化した。モーターサイクル関係ではROCKY社とも総買付代理契約を締結した。
また、アメリカに次ぐ人口と購買力をもつ欧州市場は開拓努力がようやく実を結び、安定的な取引増大が期待できるようになった。これを機に、人員を増強して欧州課を新設、1973年3月、オランダ・ロッテルダムに取引拠点として欧州事務所を開設した。こうした市場転換の努力は業績に大きく寄与したが、さらに全市場向けにモーターサイクル部品の販売強化に力を注いでいった。
1973年、第4次中東戦争が勃発し原油価格が高騰した。このオイルショックによって日本は戦後初の実質マイナス成長を記録した。日本の高度経済成長は終焉し安定成長期へと移行、1975年の輸出のほとんどが減速した。当社でも大きな割合を占めるアメリカ向け輸出は大幅に後退した。
平田社長の時代、ニクソンショック(1971年)やオイルショックによる為替変動(円高)を乗り越え、順調な発展を遂げた。1968年11月には、鉄筋コンクリート造り3階建ての新社屋が竣工し、旧ビルと合わせて計1,100㎡の事務所となった。国際テレックスを設置するなど、充実した商社機能が完備された。翌1969年、創立25周年を記念して、5月と10月の2度にわたって増資を行い、資本金を5,000万円とし現在に至っている。途上国から欧米先進国への市場転換は多大な成果を挙げたが、同業者間の競争も激化した。迫り来る台湾、中国、インドなどの追い上げを背後に、平田は1977年に社長を退任、第3代社長浅田適也にバトンタッチした。